『浜風の章』/(水辺レポート)

ここでは、河川、海、湖といった水辺に関する事柄を紹介していきたいと考えています。

2006.1.2 第1回 福岡県糟屋郡久山町 多々良川水系 猪野川上流部

2006年より新コンテンツとして「水辺レポート」を開始します。どうぞ、ご愛顧お願いいたします。
今回は、私の自宅の南東部にある、多々良川水系 猪野川上流部をレポートします。



赤い橋「五十鈴橋」を上流から見た所です。水源側より見て左側に蛇行しています。



対岸を見たところ、瀬になっているのが分るかと思います。



しばらく遡ると護岸に固められた、両岸が見えてきました。



河床部にはところどころ露頭が見え、土砂生産が盛んな様子が窺がえます。



上流部には小さな堰がありました。



堰の上流部です。淵になっていますね。水生昆虫が多数生息しています。



堰を真横から見たところです。オイカワ、タカハヤ、ウグイなどの魚類が生息しています。



背景の山は、落葉樹、常緑樹が適当に混交しており、適度な保水性があります。敗戦後、昭和20年代には、戦災と復旧用の木材需要が急増したため、全国各地の山からこの様な林分は皆伐され跡地には、スギ、ヒノキといった用材用の樹種が植林される、「拡大造林」が推進されました。
スギ、ヒノキといった単純な樹種構成の林は、「植生の多様性」が少ないため保水性は劣ります。また、絶えず、間伐、枝打ちといった手入れをしないと、保水性を維持できません。



ゲンジボタル幼虫保護のため、この様な看板が掛かっていました。それだけきれいな「水質」ということですね。
久山町役場は、「水質浄化」のため、「木炭を使用した浄化槽の普及」を推進している、全国的にも珍しい取り組みをしている、地方自治体です。
その努力が結果として見事に表われています。



水源涵養推進のため、植林推進を呼びかける看板です。
「林学」を学び、「林業」に実際に従事してきた人間から見れば、「拡大造林」ははっきり言って「負の遺産」です。
「保水性に優れる」、多様な植生の「落葉・常緑樹混交林」を皆伐し、「保水性に劣る」、貧弱な植生の「スギ、ヒノキ単層林」に置き換えた訳ですから・・・
全国各地で、頻発する「人工林」の台風被害や土砂災害、少雨による渇水は、そのことを「端的に象徴」しています。



帰り道には、ヤブツバキ Camellia japonica spp. もしくは、サザンカ Camellia sasanqua spp. の花が満開でした。
私的には「冬に咲く花」として非常に大好きです。



花を拡大したところです、「八重咲き」というのはわかりますが、私には残念ながら「園芸品種名」までは同定できませんでした。



路肩に ツワブキ Farfugium japonicum の群落を見つけました。若い茎は醤油で煮た「きゃら蕗」にすると、旨いですね。
もちろん、私自身も「きゃら蕗」作りますよ!


2006.2.5 第2回 長崎県長崎市 中島川水系中島川石橋群周辺部

水辺レポート第2回目は、「長崎ランタンフェスティバル」見物に訪れた、長崎市の観光名所となっている、「眼鏡橋」周辺部をレポートします。



今回のレポート地で最上流にある桃渓橋(ももたにばし)です。私は、「一級土木施工管理技士」資格を有する「土木技術者」でもありますので、専門的な見地から見ても、この様な「石造アーチ橋」は、橋を通過する重量を支えるのに非常に合理的な構造といえます。



桃渓橋(ももたにばし)について解説してある看板です。



桃渓橋(ももたにばし)から、下流にある水制工を見たところです。



下流側から水制工を見たところです。魚道?が設けられているのが分かると思います。



水制工の端には、コイとゴイサギらしき鳥が佇んでいました。





当日は、長崎県知事選挙と県議会議員補欠選挙の投票日でした・・・



2番目の「石造アーチ橋」編笠橋(あみがさばし)です。



3番目の「石造アーチ橋」古町橋(ふるまちばし)です。



4番目の「石造アーチ橋」一覧橋(いちらんばし)です。



5番目の「石造アーチ橋」東新橋(ひがししんばし)です。これら4橋は、1982年(昭和57年)の「長崎大水害」で流失してしまい、現在の橋は、最新技術を用いた、「石造アーチ橋」となっております。この近辺の護岸は、「練張工」となっており、とても「多自然型」には程遠いですね・・・



東新橋(ひがししんばし)の上から、1982年(昭和57年)の「長崎大水害」に際しての水路改良工事現場の状況を見たところです。



上流側から下流側を見て左側:左岸の「水路バイパス」工事の状況です。防音シートで現場が覆いつくされ、騒音対策に腐心している様子が伺えます。



「水路バイパス」工事の概要を周辺住民に対して説明する看板です。



既に完成している右岸の水路バイパス上に駐車している、油圧ショベル2台、クレーン車1台です。現場事務所も見えますね。



右岸の水路バイパス上から下流の水制工と眼鏡橋(めがねばし)を見たところです。



水制工の右岸近辺には、シラサギが佇んでいました。



中島川右岸から眼鏡橋(めがねばし)を見たところです。この橋も、1982年(昭和57年)の「長崎大水害」で流失してしまい、後年復元されました。



眼鏡橋(めがねばし)について説明した看板です。この橋から日本における「石造アーチ橋」の歴史が始まった訳ですね!日本の土木技術史上において「非常に貴重な文化財」と言えますね。



眼鏡橋(めがねばし)上から下流の「石造アーチ橋」袋橋(ふくろばし)を見たところです。袋橋(ふくろばし)付近も1982年(昭和57年)の「長崎大水害」に際しての水路改良工事が行われていますね。水制工も手前側に見えますね。



右岸から袋橋(ふくろばし)付近の水路改良工事現場を見たところです。



左岸の護岸工事現場の状況です。



「中島川石橋群」の案内図です。



袋橋(ふくろばし)上から上流の眼鏡橋(めがねばし)を見たところです。



1982年(昭和57年)の「長崎大水害」の被災状況について説明した看板です。



工事完成時のイメージ図です。



「水路バイパス」工事の概要を周辺住民に対して説明する看板です。



「新オープンシールド工法」施工イメージ図です。



「新オープンシールド工法」における掘削・積み込み状況のイメージ図です。



袋橋(ふくろばし)付近の下流には、仮橋が設けられ、工事用の重機や資材が置かれ、現場事務所も設けられています。
工事用の重機:油圧ショベル2台、手前が「パワーショベル」仕様でバケットが上向きで地面より上方の掘削に適します。奥が「バックホウ」仕様でバケットが下向きで地面より下方の掘削に適します。私は、こういった機械も運転します。



仮橋の上にある、クラムシェルバケット、これをクローラー(キャタピラ)クレーンに取り付けると「クラムシェル」というショベル系建設機械:重機になります。
右側には現場事務所が見えますね・・・



仮橋構造の断面です、H型鋼材を橋脚としてを川底に何本も立て、その上に梁を置き、橋脚間に筋交いを設け、梁の上に覆工板を載せています。
私は、福岡市多々良川水系宇美川で仮橋の架橋工事に従事した事がありますが、まさしくこれと同じ構造でした。



袋橋(ふくろばし)の左側では、護岸工事が行われていました。



袋橋(ふくろばし)下流、常磐(ときわばし)上から上流の仮橋の現場の左岸を見たところです。



袋橋(ふくろばし)下流、常磐(ときわばし)上から上流の仮橋の現場の左岸を見たところです。

今回は、1982年7月23日の「長崎大水害」で多数の石橋が流出し、また多数の建物が浸水する被害を受けた、長崎市「中島川石橋群」周辺をレポートしました。ひとたび豪雨になれば、堤防が決壊し、周辺の住民、建物に深刻な被害をもたらす「都市型河川」ですが、今回の復旧工事の状況を見る限り、「人間と野生生物が共存できる、水辺環境作り」に配慮した工事のように思えました。「土木の専門技術者」としての見地から見ても、素晴らしい工事だと思います。
私自身、過去に「現場代理人(現場監督)」の経験がありますが、予算と品質との「バランス感覚」は、非常に当事者を苦しめることが多々あります。
この工事現場の「現場代理人(現場監督)」の大変なるご苦労をお察しいたします。

長崎市「中島川石橋群」は、日本の「土木技術史」上において、「石造アーチ橋」の第1号:眼鏡橋(めがねばし)をはじめとして日本の土木技術史上において「非常に貴重な文化財」と言える橋が多数あります。これらの橋が、熊本県上下両益城郡地域に多数現存する「石造アーチ橋」の源流になったと私は考えています。



付録:今回の長崎旅行で、使った私の愛車ダイハツ テリオスキッド 中央の白い車です。


番外編 「長崎市内公共交通機関」レポート



長崎の県域FM放送局「FM長崎」の局舎です。



長崎市のバス会社「長崎バス」の路線バス塗装の2例です。



「長崎県営バス」の路線バス塗装の1例です。



同じく。



「長崎電気軌道」路面電車塗装の1例です。



同じく。



同じく。



路面電車用の信号機です。

番外編「長崎ランタンフェスティバル」レポート



縁起物「金魚と蓮」



縁起物「鴛鴦(オシドリ)と双喜」



長崎市の中華街「新地中華街」にある楼門



会場の1つ「湊公園」



様々なランタン、バショウカジキ、マイルカ、マッコウクジラ、オットセイ、ハクチョウ等が見えますね・・・



同じく、ウミガメ、アシカ、ペリカン、シャチ等が見えますね・・・



会場内には、「関羽雲長」を祭った、祭壇がありました。供物の「豚の頭」が並んでいる光景は、私には異様に感じられました。



「関羽雲長」信仰を解説した看板です。





ご存知「三国志」の英雄たちです。



「丹頂鶴」です。



「登竜門」ですね。
長崎編終わり。

2006.3.19 第3回 熊本県人吉市 球磨川水系球磨川 人吉城址周辺部

水辺レポート第3回は、日本三大急流の一つに数えられる、球磨川の人吉城址周辺部についてレポートします。



球磨川に流れ込む支流、胸川から見た人吉城址です。



現在改築中の「大橋」です。





胸川が球磨川に合流する要所に建てられていた、隅櫓の跡地です。



人吉城址から水の手橋を望んだところです。



対岸の船着場です。



JR肥薩線の鉄橋です。



急流下りの屋形船です。



人吉城址側の川岸です。



人吉城址についての説明板です。こうして平面図で見ると。支流胸川と本流球磨川を巧みに「天然の堀」として利用した、設計であることが分かりますね。





「武者返し」と呼ばれる石垣の工法です。日本旧来の城郭では人吉城のみに採用されています。







対岸より人吉城址を望んだところです。



急流下りの船です。

今回は、相良氏の城下町として栄えた、熊本県人吉市の人吉城址周辺の球磨川の様子をリポートしました。
人吉城は支流胸川と本流球磨川が合流する要害の地に築造され、支流胸川と本流球磨川を巧みに「天然の堀」として利用した、設計であることが分かりますね。やはり、城は、いかにして陥落しないかを最優先して設計されていますので、どうしても地形的な条件を活用せざるを得ませんね。

江戸時代終焉後の、西南戦争においても、薩摩軍が人吉城に陣を張り、官軍との熾烈な戦闘を繰り広げました。

人吉市周辺の球磨川は、平時はゆったりと流れていますが、氾濫原の広さから見ると、豪雨時には、増水し激流となって、下流に流れ込み、まさしく「日本三大急流」にふさわしい姿を見せるに違いありません。


2006.5.28 第4回 熊本県上益城郡山都町、下益城郡美里町 緑川水系石橋探訪編

「水辺レポート第4回目」は、熊本県上益城郡山都町、下益城郡美里町両地域に点在する、緑川水系石橋についてレポートします。
緑川水系には、古い石造りの橋が多数現存しており、「日本の土木技術史上」非常に興味深い地域となっています。
日本の石橋の源流は長崎市中島川に架かる「眼鏡橋」ですが、その技術伝播の具体的な証拠として、「緑川水系の石橋群」は貴重な文化財となっています。

「通潤橋」:いわずと知れた、日本最大の石造アーチ水路橋です。その知名度から言っても、「緑川水系の石橋群」を代表する存在です。









深い谷に周囲を囲まれた白糸台地に灌漑用水を送水するために架けられた、水路橋です。橋中央部からの放水シーンはあまりにも有名ですね。
橋本体に3本の石管が埋め込まれており、現在も現役で農業用水を送水しています。橋の石積には、熊本城の石垣を髣髴させる曲線を見ることができます。

「雄亀滝橋(おけだきばし)」:通潤橋よりも昔に築造された水路橋で、その構造は通潤橋の参考にされたと考えられています。









橋本体に1本の石管が埋め込まれており、現在も現役で農業用水を送水しています。
通潤橋が半ば「見世物」と化しているのに対し、この橋は、静かにその勤めを果たしています。

「霊台橋(れいたいきょう)」:日本最大の単一アーチ構造の道路橋です。








「県橋(あがたばし)」






「こめがね橋」






「大窪橋」






「馬門橋」






「小筵(こむしろ)橋」







今回は、熊本県上益城郡山都町、下益城郡美里町両地域に点在する、緑川水系石橋群についてレポートしました。
今回、紹介したのは、ほんの1部の石橋です。まだまだ、未訪問の石橋が沢山、緑川水系には残っています。それらについては、次の機会で報告したいと思います。
この狭い地域には、古い石橋が沢山現存しており、この地域に技量の優れた「石工集団」が居たことが解りますね。
この「石工集団」の存在が、熊本城、人吉城などの素晴らしい石垣を造り上げる上で、大きな役割を果たしたことが容易に想像できますね・・・


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